志田淳さんは道下美里選手のガイドランナーを勤め、東京2020パラリンピックでは道下美里選手とともに、金メダルを獲得しました。
志田淳さんは大学では箱根駅伝を3回走り、実業団でも活躍し、その後後輩の勧めでガイドランナーとなりました。
志田淳さんの経歴プロフィール、出身大学、劇団に出演、役割、ガイドランナーへ転身、東京2020パラリンピックなどを調べてみました。
詳しく調べてみましたので、ぜひ最後までご覧ください。
道下美里伴走者志田淳の経歴プロフィールは?
生年月日:1973年6月16日
出身地:東京都
出身大学:東海大学工学部
箱根駅伝:3回出場
所属:NEC
実業団出場:
東日本実業団対抗選手権20000m
3回出場(優勝2回、2位1回)
日本代表出場:
2000年メキシコベラクルス大会世界
ハーフマラソン選手権
マラソン自己記録:2時間18分43秒
道下美里選手と志田淳さんの画像①
志田淳さんは東京都出身ですので、都内の小学校・中学校・高等学校を出ていると推測されますが、ネット上にこれらに関する情報はありませんでした。
また、情報が見つかれば追記したいと思います。
続いては、志田淳さんの出身大学について調べてみました。
道下美里伴走者志田淳の出身大学は?
志田淳さんは東海大学に進み陸上競技部に所属しました。
志田淳さんは東海大学在学中、2年生から3年連続で箱根駅伝に出場し、それぞれ次の区間を走りました。
1996年 第72回大会:2区
1997年 第73回大会:7区
1995年大学2年生の志田淳さんは、最終区間の10区をまかされました。記録は1時間7分29秒の区間5位、一人抜いて東海大学の総合8位に貢献しました。
この年の優勝校は山梨学院大学です。
1996年大学3年生の志田淳さんは、各大学のエースが集まる2区をまかされました。記録は1時間12分7秒の区間14位、8位でタスキをもらい14位でつなぎました。
この時この区間の1位は早稲田大学のエース渡辺康幸さんで、1時間6分54秒というとてつもない記録でした。渡辺康之さんは早稲田大学卒業後ヱスビー食品で活躍し、引退後は早稲田大学駅伝部監督も務めました。
渡辺康幸さんの画像
この頃の渡辺康幸さんは”30年に一人”と言われるほどの逸材と評価されていました。
この年、東海大学は総合4位、優勝校は中央大学でした。
1996年大学4年生の志田淳さんは7区をまかされました。記録は1時間5分22秒の区間6位という成績でした。
この年、東海大学は総合8位、優勝校は神奈川大学でした。
大学卒業後はNECに入社し、実業団で活躍しています。
続いては、志田淳さんの劇団に出演について調べてみました。
道下美里伴走者志田淳が劇団に出演とは?
志田淳さんは、仕事をしながら2009年春には「劇団ひの」に入団し、「太陽の子」のお父さん役、「カモメに飛ぶことを教えた猫」の詩人役、「新羅生門」では岡本信也役で出演しました。
「劇団ひの」は、1973年に誕生した、「日野にルネッサンスを!」を合言葉とする地域アマチュア劇団です。
6月と12月、年に2回の公演を行っています。
「太陽の子」のキャストに志田淳さんの名前があります。
「太陽の子」のキャスト画像
公演のための練習は週2~3回行い、専門講師によるダンスや歌など基礎練習も月2回行っています。初心者も大丈夫で、基礎からじっくり教えています。
志田淳さんは、役者をやることに全く興味はなく、宝塚歌劇団の従兄弟の舞台や、友人の舞台を観に行く程度でした。
きっかけは、会社の友人が「劇団ひの」の舞台に出演していて、観に行った時に、演出をしている人から声をかけられたことでした。
「次回公演は沖縄の話なんだけど、あなたは沖縄の人みたいな顔ですね。ちょっとやってみませんか?」と話しかけられたのです。
志田淳さんは堀の深い顔立ちなので、沖縄の人みたいだと言われたのかもしれません。
じゃあやってみるかと決めたら、とんとん拍子に進み舞台に立っていました。
志田淳さんは、ランナーとして活躍してきたことが、舞台に立つことにつながったのではないかと言っています。
志田淳さんの回りには、凄いランナーがたくさんいましたが、故障が多かったり、試合で力が発揮できなかったり、自らあきらめるランナーを多く見てきました。
志田淳さんは、ランナーの境界線は、粘り強く頑張れるかあきらめるかで、舞台に立つことも同じだと考えているのです。
最後まで粘り強く頑張れば成果を出せると、志田淳さんは語っています。
何事にも粘り強く頑張れる人が、何かその先の道を切り拓くのだと思います。
続いては、志田淳さんの役割について調べてみました。
道下美里伴走者志田淳の役割は?
道下美里選手は中学生の時に「膠様滴状角膜ジストロフィー」という難病で右目の視力を失い、25歳の時に同じ病気で左目の視力も失いました。
道下美里選手の視力はわずかに光を感じられる程度のようです。
志田淳さんは、道下美里選手とリオデジャネイロパラリンピックの後からチームを組み、東京2020パラリンピックでの金メダル獲得を目指して頑張ってきました。
志田淳さんの道下美里選手の伴走者としての役割は、一緒に走行するだけではありません。
道下美里選手と志田淳さんの画像②
道や順路を指示したり、アドバイスしたり、声をかける場面が数多くあるのです。
伴走者の志田淳さんには、道下美里選手のコンディションを見極め、その時々の状況に合わせ、適切なアドバイスを伝える重要な役割があるのです。
続いては、志田淳さんのガイドランナーへ転身について調べてみました。
道下美里伴走者志田淳がガイドランナーへ転身とは?
志田淳さんがガイドランナーに転身したきっかけは、後輩から視覚に障害を持つランナーの伴走を頼まれたことでした。
志田淳さんは、その当時の事を「30歳をこえて記録的にやや頭打ち」「人助けというより、自分にとってプラスになる経験ができる。現状を打破するきっかけになるかもしれないと考え、依頼を受けました」と語っています。
志田淳さんは会社勤務をしながらガイドランナーを務めるようになりました。
ガイドランナーは、視覚障害のあるランナーをよく理解する必要があります。最初は選手と歩くことから始めましたが、選手の目となる難しさにぶつかりました。
志田淳さんはガイドランナーを「一緒に戦う競技者」と表現しています。
続いては、志田淳さんの東京2020パラリンピックについて調べてみました。
道下美里伴走者志田淳の東京2020パラリンピックは?
東京2020パラピック最終日に行われた、女子マラソンで志田淳さんは道下美里選手の後半のガイドランナーを勤めました。
志田淳さんは道下美里選手と伴走しながら、30キロ過ぎ給水所でのロシアパラリンピック委員会のエレナ・パウトワ選手の動きを見逃しませんでした。
チャンスと見た志田淳さんは「いけるか?」と道下美里選手に声を掛けました。
道下美里選手が「いける!」と即答、いっきにギアを上げました。
引き離し始めると「テンメーター!トゥエンティーメーター!」という志田淳さん英語の叫び声、道下美里選手は驚いたと語っています。
志田淳さんは「差が開いていることを相手にも聞こえるように英語で言いました。いやらしいけど」と語っています。
これで勝負は決まりました。
道下美里選手と志田淳さんの画像③
そのあとは二人旅、道下美里選手は志田淳さんと一緒に金メダルのテープを切りました。
道下美里伴走者志田淳の経歴がスゴイ!出身高校や大学は?まとめ
志田淳さんは、大学から実業団までランナーとして活躍し、その後劇団員そしてガイドランナーへと転身しました。
ランナーとして得た、粘り強く頑張るという人生観に共感しました。
志田淳さんの今後の益々の活躍を期待しております。
最後までご覧いただき有難うございました。
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